2011年5月30日月曜日

新地小学校でのプレ活動「小さな喫茶店」


















































































































2011429日 金曜日

「小さな喫茶店」 

 昨日、絨毯をつくり終えた私はタイミングを探っていた。絨毯の上に座り、近くの黒板と机上の紙に色々と書いていたら、子どもたちが寄ってきた。「この絨毯の上に店をつくろうと思う。」といって〈町にある店〉をリストアップしてみている紙をみせた。1人がかなり興味を示し、他の子は様子を伺っている。花屋、服屋、八百屋、郵便局、喫茶店、歯医者、床屋。しばらくして、この中のどれを選ぶか待っていると、少女は喫茶店がいいと言った。そこから夜10時までエプロンをつくって準備をしたのだった。

急展開で喫茶店をオープンさせることになった本日、約束の朝8時半をすこし過ぎて到着するとすでに子どもたちが準備にとりかかっている。新地小学校の給食の先生でもあるテルミさんと子どもたち数人と私で慌ただしい喫茶店準備がはじまった。まずは本部に許可をもらう。余っているから物資を使ったらいいと助言もいただいた。となると、食事担当のお母さん方にも物資を使う許可をとらないといけない。テルミさんと小4のレミと私があっちへこっちへうごきまわる。テルミさんもここで生活していて食事当番もしているので交渉はスムーズで快諾された。

つづいてチラシをつくる。レミの意見で店名は「小さな喫茶店」に決まり、日時や場所を手書きしたチラシをつくる。40枚くらいできると体育館に行き広報する。11枚手渡ししてまわっていくと、いつも遊んだり漫画よんだりしているレミがなにやらしだしたぞ、何だ何だとみんな微笑ましいリアクション。

昼食が終わるときを見計らって、ついに「小さな喫茶店」がオープン。私はお湯を注ぐ役をやって、その他の部分は子どもたちが頑張る。ウエイトレスから、営業から、ホットケーキづくりから、なんでもやるので途中で私は抜けて写真を撮ったりしていた。次々にお客がやってきて、大忙し。小さな店員は焦るが、お客さんはその焦るすがたをみて笑ったりしている。

 大好評なので夕食後にもやることになり、もう一度チラシをつくって配る。さっきはやりたいけどどうしようと迷っていた子も第二弾は全員参加の意思を固める。小2のアズサはやりたさのあまりに泣いていた。追加の買い出しのためすぐ近くの商店に出向く。おそらく子どもたちは外に出てはいけないのだろうが、ついてきた。おしるこやフルーツポンチの新メニューのために白玉粉を購入し、帰り道は小雨がふっていたので急いでもどった。以前は普通に歩き回っていた道に出るのもままならない。

 夕食後は昼間の倍以上のお客で、てんやわんや。注文票がまたたく間にたまっていく。「このために絨毯あんでたんかー。」すわりながら追加注文するおじさん。ウエイトレスの二人は食堂イスに座るお客さんのところへ歩み寄る。コーヒー、抹茶カプチーノ、ココア、おしるこ、フルーツポンチ、あんみつ。注文殺到する。意外と冷静な調理班は分業してうまくつくっている。お湯を注ぐだけの私の方が落ち着きがなかったくらいかもしれない。だんだんと、客足が落ち着いてきて、絨毯に座る数人のお客と話しながら子どもたちも好きなものを食べる。自然と閉店して片付けた。

町のパーツをリストアップして、その中から選んだ一つを絨毯の上に立ち上げる。今回は喫茶店だけど次回は何にする?という話で最後に盛り上がるが結局ひとつには決まらなかった。また喫茶店をやりたいという意見もあって、それもそれでいいように思える。前日の準備中に、私のスケッチをイズミが見つけたことがキッカケで彼女たちやテルミさんは今回がまず一歩目だということを分かっている。「今回はひとつだけど、いつかは同時に何個もおなじように開いて、市場のようにやれないかと思ってる。仮設住宅にうつってから。」そう説明すると、それぞれ住む仮設が違うので、イマイズミの仮設でやろうよ、オオドの仮設でもやろうよ、など意見がとんだ。もし実現するのならそのときも一緒にやろうと約束する。

彼女たちは私について、年齢と名前くらいしか知らないと思う。あんまり詳しい自己紹介をしたくなかった。私は支援する人でも、ボランティアでも、避難している人でもなく、絨毯を編む人としてここにしばらく居た事で、「小さな喫茶店」の時にも脇役でいることができたのだと思う。被災、避難、支援、チャリティ、物資。同じ人間を区別し隔てるコトバがいまここに散布されている。それぞれの意味がプラスであるかマイナスであるか関係なしに、これらの言葉は彼女たちを他と異なる存在として括ろうと働いてしまう。それはとてつもない震災によって現れたもうひとつの現実。レミやイズミやミフユやアズサやアミは、どうもそれを気持ち悪がっている気がした。私もどこか気にくわなかった。まず彼女たちと、「私」と「あなた」という関係の元、小さな行動を共有してみたかった。そのために、私は絨毯を編んだり、喫茶店を準備するプロセスで、私自身の先入観を慎重に剥がしていかなければいけなかった。ようやく剥がれてきたようなところで気づくと彼女たちは店員になってバリバリ働いていた。

2011年5月29日日曜日

福島県相馬郡新地町滞在記 9日目



















2011427 水曜日

学校の中にいる。ゼロ地点の疑い。

ボランティア活動から1日を始める。昨日一緒に仮設住宅のタンスを組み立てた人が夫を連れてきていて、31組になり18-1の家に向う。今日の家はワンルームタイプだった。一人暮らしの場合はこのタイプになるのだろう。仮設住宅には1K,2K3K3つのタイプがある。昨日の反省点をいかし電動ドライバーが新しいアイテムとして導入された。2日目だけに作業の効率が格段にあがっている。追加でスチールの棚も組み立てて、レンジを配置して終わった。作業を終えて車にもどるとき、おじいちゃんと孫が手をつなぎ高台から町をみおろしていた。野球場のベンチと住宅というおかしな状況の中で陽が当たりなんだかいい後ろ姿に見える。

 役場近くのとんかつ屋にいって昼食をとる。大盛り分をまけてくれた。「わたしらもボランティアしてるのよ。」と女将がいう。

新地小に到着。食堂には数人しかいない。平日の昼間にくるのがほぼ初めてだったのですこし意外だった。昼間もテレビをみにきていたりするのかとおもっていた。そのなかでまた絨毯を編んでいく。目標の大きさまであと少し。しばらくすると小学校の校長先生がやってきた。新1年生を迎える会の準備をするらしい。ここは避難所の食堂であり、小学校の集会スペースでもあるのだ。学校側も校庭は放射能で、体育館は避難所になっていて使えないため、スペースを失っていた。校長先生も私について幾つか質問して理解してくれた。そのあとやってきた6年生の担任の先生がすでに私を知っている。さすが校長。食堂につかっていたテーブルや椅子は一気に片付けられ、6年生のリハーサルがはじまった。4年生もきて会場の飾り付けをしている。その中には最近仲良くなった体育館で寝泊まりしている子どもたちもいる。

私がいつのまにかここが避難所の食堂だと思い込んでいたのがいけなかった、ここはあくまで学校である。避難所は学校の中にあり、私は学校の中の避難所に寄り添うように居る。避難所は学校に寄生しているようだった。学校が終わると数人の子どもたちが食堂にやってきて、宿題をしたりあそんだりする。ここで寝泊まりする子どもたちは数人で、私は彼女たちとよく遊ぶ。

絨毯が大体編みあがり、上にテーブルを置いてみたらいつも気にかけてくれたお母さんたちがよってくる。菓子を食べながら色々話をした。「私たちは避難してるんだから。ごはんも3食つくってて贅沢なんだよ。他にくらべたら新地小は良すぎなんだっぺ。ここは学校なんだから、昼間はテレビ切って体育館いくなりしねとだめなんだ。」幾つかのことがリンクする。

いちど解散したと思ったら、苺をもってまたやってきた。苺をつまみながら新地町の色んなことを聞く。夜9時におやすみなさいと言って帰る。体育館の消灯は9時半だったはずだ。

 我々はある意味で大津波によって荒れ地になった風景を、ゼロ地点として考えがちだろう。つまり「震災後」の「被災地」としてのこの町をどうしても捉えてしまうだろう。話をするうちにそれは大きな過ちだと気づく。私も今回はじめてこの新地町に出会ったので以前の姿がわからない。でもここに居て1人で地元の人と対話しつづけることを通して、だんだんとあの津波を長い時間生きているこの地域のイチ風景として客観視できるようになってきた。この土地を知っていくほどにゼロ地点と思っていたところが通過点に変わっていく。この変化は地味だけどとても大事なステップだと思いたい。このように身体をじっくり寄せるプロセスを踏んでないと、私はここに関わることをしたくないのだとも思う。それぞれのゼロ地点を疑って、じっくり係わることを無しに、今なにをはじめるというのだろう。

2011年5月28日土曜日

福島県相馬郡新地町滞在記 8日目











2011426 火曜日

「仮設住宅のタンス、編まれる絨毯、水産加工業」

 地元の野菜などを売るお店「あぐりや」に夕子さんが出勤。見送ってからPCで日記を書いた。終えるとマスクをつけて家を施錠する。鍵をにぎって、夕子さんにに届けにいく。初めて見る店員としてのすがた。以前から横を通ることがあり、地元のものを地元の人が売り、地元の人が買っていくこのお店を知っていた。このまちでの新しい「市場」について最近考え続けている私にとって「あぐりや」はとても気になる存在だ。

町役場に行って物資のコーナーを訪ねるとすでに役場での物資配布は終わっていた。避難所の少女が絵柄付きのマスクを求めていたので探しにきたのだが手に入らなかった。

いつもどおりボランティアセンターに行く。数日前までは相馬に入っていたボランティアが特例的に新地のボランティアとして活動していたが、今日みてみると私以外の全てのボランティアがここ新地町内の人になっていた。人員不足について把握しつつある現状だが、町民の力でなんとかしていこうという考えがあらゆる部分からかぎとれる。午前中の作業は仮設住宅のタンスづくりになった。昨日からようやくはじまった仮設住宅への転居。抽選であたった人から総合運動場につくられた仮設住宅へと移り住んでいる。国道6号の脇を走る旧道を右折し高台へのぼっていくと、自衛隊の車両と立ち並ぶ仮設住宅の棟がみえてくる。14-6の家に向った。近くまで着いて、立ち話している人たちに話しかけると「ここでやってんぞ。」と教えてくれた。すでに女性2人が作業していて、加わる。4畳半程度の部屋2つにトイレ、風呂、流し、テレビ、冷蔵庫、洗濯機などがある。依頼主のおばあちゃんは青菜を水道で洗っていた。予想以上に複雑な作業工程であるタンスに悪戦苦闘、ドライバーを車に取りにいきながら昼食のカロリーメイトを2片食べる。一つ終わると次の家、それが終わるとまた次。3軒目のときには作業メンバーも減り私と1年前に今泉地区にUターンでもどったお母さんのみだった。風呂に入っているつるし地区副区長の主人。昨日コメリで道具を買ってタンスに挑んだがステップ3くらいで諦めたらしい。ようやく終わった頃には午後3時。役場の職員さんもちょうどやってきて一緒にすこしコーヒー休憩をとった。この作業は電ドライバーが必須ですね、とみんなでタンスづくりの手間を認めあう。

一度ボランティアセンターに戻り作業報告。すぐさま新地小学校へ。遅くなってしまった。本部に挨拶して、食堂で絨毯を編む。地元の大工さんがやってきて世間話しながら二人でどんどん編んでいく。昨日約束していたおばちゃんは、遅くなったからもうこないだろう。夕食の時間がはじまっても編み続ける。今日はどの地区が食事担当なのだろう。いつもよりスタートは遅いけど、なんだが活気がある配膳だった。「きたざわくん!メシくえ!」いつものように誘われる。いやいや、大丈夫です、と言うのだが断れる余地はない。自衛隊が炊いている白米、豚汁、冷奴、フルーツ、唐揚げ。品目が多かった。地区ごとに食事の時間が決まっていて入れ替わるので、その入れ替わり時間にまにあうように口一杯に白米をかきこむ。休憩をはさんでまた絨毯を編む。だいぶ顔見知りになってきたので色んな人が進み具合を確認しにやってくる。話がはずむとこの絨毯の用途についてアイデアをだしあったりすることもある。この対話から相談、アイデア、実行。につづけばこの絨毯をひとつの場とした何かがはじまるかもしれないが、あまり想像しないでおかねばならない。

歌謡ショーを見おわったお母さんと夜9時を過ぎているが長話をした。家族が7人いて洗濯機を2台フル稼働させて洗濯していたこと、朝食を全員分つくり、仕事にいっていたこと。水産加工業をしていて、タコ、ヒラメ、アナゴ、キンキなどそれぞれの加工方法を話してくれた。私も興味があって次々に細かく質問した。「アナゴの頭をおさえて小さめの包丁でサッとひらくのよ、天ぷらにしてつゆをかけてね。私は嫌いだから食べないんだけどさ。」海からあがった魚介によって仕事の終わり時間は毎日変わる。話を聞けば聞くほど漁師町の磯の香りと加工工場の活気が頭に浮かんでくる。今はなくなり見えなくなった海と共生する営みが彼女とのやりとりによって少しずつ私のなかに鮮烈に残る更地と瓦礫の光景に建ちあがるような気がした。いつかその加工の手技を教えてくれるといって体育館の方にその人を見送った。

2011年5月27日金曜日

福島県相馬郡新地町滞在記 7日目

2011年4月25日 月曜日

 新地町滞在7日目。昨日に引き続き晴れている。7時半ころに起きると、居候させていただいている寺島家の主はとっくに出勤していた。朝食を食べながら、妻、夕子さんと新聞の情報や、家の前を通る小学生の通学風景などについて話す。「ようやくいつものすがたが戻ってきて嬉しいわ。」という。子どもたちはマスクを装着している。

なぜ福島県相馬郡新地町、さらにこの寺島家に私がいるか、ということについて短く記録しておく。ブータンでの活動を終え帰国して3日後、私は東北道を運転していた。車中泊をして明朝から県外ボランティアを受け入れているところでボランティアをしようと思っていた。高速をおりて福島を南下した。あたりをつけていたボランティアセンターと、知人である西川さんがいる場所が近いからだった。西川さんは旅人で、徳島県で《リビングルーム》をやったときに知り合った。彼は数年前にここ新地町に訪れたことがあったらしくその繋がりで私がやってくる1日前から滞在していた。出発まで何度か連絡をとらせてもらって情報を得ていて、一度直接会おうと思い、新地のコンビニで再会、そのまま西川さんのお世話になっているという寺島家に誘って頂き、私も新地町に留まらせていただくことになったというわけだ。

その際、数日間滞在し、いちど戻り関東での仕事をいくつか進めて、また今回東北道を走りやってきた。冒頭の滞在日数は前回と今回の合計日数である。前回きたときは、新地入りしたばかりの九州の社会福祉協議会の方とお会いしてどうやってボランティアセンターを立ち上げるか、という話をしていたのだが、今回きてみると役場の近くにボランティアセンターができてすこしずつシステムが整理されている段階となっていた。
 
私は現在、午前中はボランティアとしてニーズがあるところに出向きその日その日の作業を行い、午後はボランティアとしてではなく避難所である新地小学校に居続けている。

前回滞在したときに新地小の玄関前で避難生活を送る歯科医さんと仲良くなり、カルテを洗ったり、理科室に診療室をつくるお手伝いをしていた経緯もあり、今回も新地小に通い始めた。

2色の布を抱えて、これで絨毯を編もうと思っているんですけどどうですかね?と少し顔見知りだった避難所駐在の県や役場の職員さんたちに交渉した。あら、いいじゃない。という感じ。その場で幾つか段階的な確認作業を行ってくださり、「今日からやります?」「はい。やります。」とすすんでいった。本部の人に声かけるまでの迷いと緊張は小心者の私にとってとてつもないものだった。しばらくして食堂となっているスペースで絨毯を編み始めているとその職員さんがやってきて、本部のシステムだったり、他の避難所の話を聞いた。また「支援」や、「避難所」、「ボランティア」という言葉が安易に含む外部と内部の上下観念について意見を交わした。「横に居るだけでいいと思うのよ。」という彼女の言葉に先ほど積極的に他との交渉をしてくれた理由を感じる。そのあと小学生の女の子が母親の足に隠れながらやってみたいと言って、しばらく編んでいると仲良くなった。

避難所に居続けるということが、できたばかりのボランティアセンターの制度的管轄ではありえないことであるので、私は「絨毯をつくる」という変則的活動によって生まれたポジションを活かして直接ニーズを聞いたりボランティアセンターのチラシを持っていったりなど、「繋ぐ」役目も担っている。

この絨毯はいわゆる避難所での憩いスペースづくりといったものを作ることが最終目的ではなく、あくまでこの町に関わる第一歩のようなつもりなのだが、今回ばかりは本当にどうなるかわからない。イメージしている、次の、また次のステップへと幾多の状況をふまえながらこの絨毯から展開していくのか、これが本当にわからない。それでもやる。

「避難してないじゃーん!」といいながら絨毯を編む子ども、「ストッキングを使う方法もあるのよ」、「いらない広告をつかっても編めるぞ」とアドバイスするおばあちゃん。とりあえず絨毯にすわり色々話していくおっちゃん。「メシくったか?」といって誘う船方と思われるお父さん。居るのか、いらないのか。わたしは、他の土地で行っていることと似たように自分の存在意義を薄っぺらにしたり、されたりしながら、それでもいくつかの対話を拾い集めはじめている。