2011年4月25日 月曜日
新地町滞在7日目。昨日に引き続き晴れている。7時半ころに起きると、居候させていただいている寺島家の主はとっくに出勤していた。朝食を食べながら、妻、夕子さんと新聞の情報や、家の前を通る小学生の通学風景などについて話す。「ようやくいつものすがたが戻ってきて嬉しいわ。」という。子どもたちはマスクを装着している。
なぜ福島県相馬郡新地町、さらにこの寺島家に私がいるか、ということについて短く記録しておく。ブータンでの活動を終え帰国して3日後、私は東北道を運転していた。車中泊をして明朝から県外ボランティアを受け入れているところでボランティアをしようと思っていた。高速をおりて福島を南下した。あたりをつけていたボランティアセンターと、知人である西川さんがいる場所が近いからだった。西川さんは旅人で、徳島県で《リビングルーム》をやったときに知り合った。彼は数年前にここ新地町に訪れたことがあったらしくその繋がりで私がやってくる1日前から滞在していた。出発まで何度か連絡をとらせてもらって情報を得ていて、一度直接会おうと思い、新地のコンビニで再会、そのまま西川さんのお世話になっているという寺島家に誘って頂き、私も新地町に留まらせていただくことになったというわけだ。
その際、数日間滞在し、いちど戻り関東での仕事をいくつか進めて、また今回東北道を走りやってきた。冒頭の滞在日数は前回と今回の合計日数である。前回きたときは、新地入りしたばかりの九州の社会福祉協議会の方とお会いしてどうやってボランティアセンターを立ち上げるか、という話をしていたのだが、今回きてみると役場の近くにボランティアセンターができてすこしずつシステムが整理されている段階となっていた。
私は現在、午前中はボランティアとしてニーズがあるところに出向きその日その日の作業を行い、午後はボランティアとしてではなく避難所である新地小学校に居続けている。
前回滞在したときに新地小の玄関前で避難生活を送る歯科医さんと仲良くなり、カルテを洗ったり、理科室に診療室をつくるお手伝いをしていた経緯もあり、今回も新地小に通い始めた。
2色の布を抱えて、これで絨毯を編もうと思っているんですけどどうですかね?と少し顔見知りだった避難所駐在の県や役場の職員さんたちに交渉した。あら、いいじゃない。という感じ。その場で幾つか段階的な確認作業を行ってくださり、「今日からやります?」「はい。やります。」とすすんでいった。本部の人に声かけるまでの迷いと緊張は小心者の私にとってとてつもないものだった。しばらくして食堂となっているスペースで絨毯を編み始めているとその職員さんがやってきて、本部のシステムだったり、他の避難所の話を聞いた。また「支援」や、「避難所」、「ボランティア」という言葉が安易に含む外部と内部の上下観念について意見を交わした。「横に居るだけでいいと思うのよ。」という彼女の言葉に先ほど積極的に他との交渉をしてくれた理由を感じる。そのあと小学生の女の子が母親の足に隠れながらやってみたいと言って、しばらく編んでいると仲良くなった。
避難所に居続けるということが、できたばかりのボランティアセンターの制度的管轄ではありえないことであるので、私は「絨毯をつくる」という変則的活動によって生まれたポジションを活かして直接ニーズを聞いたりボランティアセンターのチラシを持っていったりなど、「繋ぐ」役目も担っている。
この絨毯はいわゆる避難所での憩いスペースづくりといったものを作ることが最終目的ではなく、あくまでこの町に関わる第一歩のようなつもりなのだが、今回ばかりは本当にどうなるかわからない。イメージしている、次の、また次のステップへと幾多の状況をふまえながらこの絨毯から展開していくのか、これが本当にわからない。それでもやる。
「避難してないじゃーん!」といいながら絨毯を編む子ども、「ストッキングを使う方法もあるのよ」、「いらない広告をつかっても編めるぞ」とアドバイスするおばあちゃん。とりあえず絨毯にすわり色々話していくおっちゃん。「メシくったか?」といって誘う船方と思われるお父さん。居るのか、いらないのか。わたしは、他の土地で行っていることと似たように自分の存在意義を薄っぺらにしたり、されたりしながら、それでもいくつかの対話を拾い集めはじめている。
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