2011年5月29日日曜日

福島県相馬郡新地町滞在記 9日目



















2011427 水曜日

学校の中にいる。ゼロ地点の疑い。

ボランティア活動から1日を始める。昨日一緒に仮設住宅のタンスを組み立てた人が夫を連れてきていて、31組になり18-1の家に向う。今日の家はワンルームタイプだった。一人暮らしの場合はこのタイプになるのだろう。仮設住宅には1K,2K3K3つのタイプがある。昨日の反省点をいかし電動ドライバーが新しいアイテムとして導入された。2日目だけに作業の効率が格段にあがっている。追加でスチールの棚も組み立てて、レンジを配置して終わった。作業を終えて車にもどるとき、おじいちゃんと孫が手をつなぎ高台から町をみおろしていた。野球場のベンチと住宅というおかしな状況の中で陽が当たりなんだかいい後ろ姿に見える。

 役場近くのとんかつ屋にいって昼食をとる。大盛り分をまけてくれた。「わたしらもボランティアしてるのよ。」と女将がいう。

新地小に到着。食堂には数人しかいない。平日の昼間にくるのがほぼ初めてだったのですこし意外だった。昼間もテレビをみにきていたりするのかとおもっていた。そのなかでまた絨毯を編んでいく。目標の大きさまであと少し。しばらくすると小学校の校長先生がやってきた。新1年生を迎える会の準備をするらしい。ここは避難所の食堂であり、小学校の集会スペースでもあるのだ。学校側も校庭は放射能で、体育館は避難所になっていて使えないため、スペースを失っていた。校長先生も私について幾つか質問して理解してくれた。そのあとやってきた6年生の担任の先生がすでに私を知っている。さすが校長。食堂につかっていたテーブルや椅子は一気に片付けられ、6年生のリハーサルがはじまった。4年生もきて会場の飾り付けをしている。その中には最近仲良くなった体育館で寝泊まりしている子どもたちもいる。

私がいつのまにかここが避難所の食堂だと思い込んでいたのがいけなかった、ここはあくまで学校である。避難所は学校の中にあり、私は学校の中の避難所に寄り添うように居る。避難所は学校に寄生しているようだった。学校が終わると数人の子どもたちが食堂にやってきて、宿題をしたりあそんだりする。ここで寝泊まりする子どもたちは数人で、私は彼女たちとよく遊ぶ。

絨毯が大体編みあがり、上にテーブルを置いてみたらいつも気にかけてくれたお母さんたちがよってくる。菓子を食べながら色々話をした。「私たちは避難してるんだから。ごはんも3食つくってて贅沢なんだよ。他にくらべたら新地小は良すぎなんだっぺ。ここは学校なんだから、昼間はテレビ切って体育館いくなりしねとだめなんだ。」幾つかのことがリンクする。

いちど解散したと思ったら、苺をもってまたやってきた。苺をつまみながら新地町の色んなことを聞く。夜9時におやすみなさいと言って帰る。体育館の消灯は9時半だったはずだ。

 我々はある意味で大津波によって荒れ地になった風景を、ゼロ地点として考えがちだろう。つまり「震災後」の「被災地」としてのこの町をどうしても捉えてしまうだろう。話をするうちにそれは大きな過ちだと気づく。私も今回はじめてこの新地町に出会ったので以前の姿がわからない。でもここに居て1人で地元の人と対話しつづけることを通して、だんだんとあの津波を長い時間生きているこの地域のイチ風景として客観視できるようになってきた。この土地を知っていくほどにゼロ地点と思っていたところが通過点に変わっていく。この変化は地味だけどとても大事なステップだと思いたい。このように身体をじっくり寄せるプロセスを踏んでないと、私はここに関わることをしたくないのだとも思う。それぞれのゼロ地点を疑って、じっくり係わることを無しに、今なにをはじめるというのだろう。

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